願わくば、みかんの花咲く里で

間もなく80歳。笑いながら、怒りながら、もしかしたらべそかきながら、自分を励まして生きていく記録

「ありがとう」は、いつまで?

 2011年4月~12年4月、ちょうど1年間、タイ北端の小さな町チェンカムに住んでいた。日本語教育のボランティアとしての着任だったが、その赴任数日前に、友達から”この人に連絡を取るといいよ”と紹介された女性Tさんがいた。

それは、こんな関係だった。

私🤷‍♀️⇒ 友だちOさん😘⇒ 知人Mさん😀(医師)⇒ 学友Sさん😘(タイ人医師)⇒後輩Tさん😉(タイ人看護師)

つまりTさんは、友だちの、友だちの、友だちの、後輩というわけなので、そんな遠い関係の人に連絡を取っていいものかどうか、ためらわれ、こちらからは何もしなかった。

 辺境の地での心細い生活が始まって、半月ばかり経ったある日、

🥰「ハ~イ!!」

Tさんこと・タミーが訪ねてきてくれた。

ああ、うれしかった、ほんとにうれしかった。

私のプアー英語じゃ十分な意思疎通は難しかったが、とにかくうれしかった。

 

この日を機会に、タミーのファミリーとの交流が始まった。

タミーには4人の叔母がいて、それが当時77、72、65、62歳で(長女だったタミーの母親は若くして死亡)みんな私の住まいの近くに住んでいた。

そして、しょっちゅうファミリーの集まりに私も加えてくれた。

この写真は、ある日「エビを食べに行こう」となって、バンガローでエビ・ステーキ・パーティーをしているところである。

この写真一番手前がジャム77歳。彼女はかつて結婚していたが、夫と別れ、もらいっ子はバンコックに行ってしまったので、さびしい一人暮らし。一時期タミーの世話などもしたので、タミーを子どものように思っている。私をタミーの友だちということで、私にまで親近感を持ち、それこそ毎週のように「今晩、食事に来い」と呼びに来てくれた。といっても、私はタイ語ゼロ、ジャムは英語ゼロなので、たまたま2人だけになってしまうと、会話はゼスチャーオンリーである。

 ジャムは本当に貧しかった。タミーからの情報によれば、年金の月500バーツ(当時1500円くらい)だけが収入。それなのに何とか野菜や魚を買って、私にご馳走してくれた。下の写真は、ジャムの台所用品。これだけで、炭火を起こして七輪のようなものの上に鍋を置いてご飯を炊き、魚や野菜を煮る。

 

ジャムには時々スーパーで10㎏の米を買ったり、魚醤や何やらタイで使っている調味料を届けたりしたが、チェンカムにいる間は、ほかにはほとんど何もできなかった。

それで、帰国してから、タミーのファミリーのあの人にはこれ、この人にはこれ……と、ユニクロで衣類を1ダースほど買って郵送した。その段ボール箱の中にはタミーあてのお礼状も入れておいた。

ところが、半月経っても1月経っても、荷物を受け取ったとも何とも連絡がこない。

🤔おかしいなぁ、着いてないのかなぁ。

「Thank you」などと言ってくれなくてもいいけど、着いたかどうか心配で、しびれを切らせてタミーにメールを出したが、その返事もこない。

それで、もうこちらはあきらめて、別にフランス語の先生(タイ人)にも世話になったので、こちらにもちょっとしたものを送ったら、彼女から

「ジャムがマキ(私のこと)からもらったって、新しい服を着てますよ」

とメールが来て、やっとユニクロの衣類も無事にタミーのところに着いていたことが分かった。(フランス語の先生の家も、ジャムの家に近い)

 

あれほど小まめにいろいろしてくれたタミー、(2泊3日の旅行にも3回誘ってくれた)それなのに「荷物着いた、ありがとう」の一言もない。

これがタイ人の意識なのか~と知ったのだった。

タイ人は本当に親切。だけど終わったら、もう終わり。

終わりだから「ありがとう」も不要なのだ、きっと。